黄河大合唱と黄河ピアノ協奏曲

「黄河ピアノ協奏曲の編曲に携わった人々は、もうあの頃のように集まることはない。しかし「黄河」だけは、これからも中国で愛され、響き渡り続けていくでしょう。」

 

どこか寂しげに語っていたのは、黄河ピアノ協奏曲の編曲家集団の一員「儲望華」。1993年、オーストラリアの中国誌「華声新聞」のインタービューを受け、黄河ピアノ協奏曲の編曲エピソードを語りました。

 

20世紀中国を代表する交響曲「黄河」

たった二文字ですが、中国人にとって様々な意味合いを持っています。

 

「黄河」(Yellow River)は中国で2番目に長い川、高原の黄色い土が激流に削られ、やがて下流に流れ、川全体が黄色く濁っていることから「黄河」と名つけられました。

 

古代中華文明「別名:黄河文明」の発祥の地であり、黄河の中下流域を中心に文明が発展して来ました。 文化そして商業の主要地域が黄河の周りに有るため、古来より係争が絶えませんでした。中国近代史においても、「黄河」は歴史上数多くの戦場となってきました。「黄河大合唱」(後に「黄河ピアノ協奏曲」に編曲された)も黄河の戦場から生まれた作品です。

 

『黄河大合唱』は、1937年激しくなった日中戦争に遡ります。 1938年、武漢作戦で中国軍が敗北し、戦争の悲惨さを目の当たりにした詩人「光未然」は、演劇隊を率いて呂梁山の基地へ移動することになりました。 途中、黄河渡口で船に乗って渡ることになりましたが、船夫が激流と戦う姿が戦士の姿に重なり、思わず『黄河吟』の詩を創作しました。

 

その後、延安で体調を崩し休養中の「光未然」に、パリの留学から帰国した音楽家「冼星海」が見舞いに来ました。 病室で『黄河吟』の朗読と創作背景を聞いた「冼星海」は、6日間で8楽章にわたる大編成合唱曲「黄河大合唱」を書き下ろしました。 1939年3月31日に曲は完成し、同年4月13日に初演を果たしました。 このような短期間で創作した作品が、後に中国の代表的な音楽になることを、だれも予測できなかったでしょう。

 

『黄河大合唱』はなぜ「黄河ピアノ協奏曲」になったか? 

初演を終えた『黄河大合唱』は予想せぬ大反響を中国全土に巻き起こし、中国国民の心を一つにし、あっという間に中国各地へ広まっていきました。 

 

しかし、このような中国の文化や歴史、不屈の精神を讃える曲が1966年に勃発した「文化大革命」とともに演奏が禁止されました。 なぜなら、歌詞の中に「国民党」を美化すると思わせる言葉が一箇所ある事でした。(文化大革命時期の中国音楽について【文化大革命時期の音楽】をご覧ください。文化大革命後「黄河大合唱」の演奏が解禁された。)

 

中国人の心の曲をもう一度演奏したい、この一心で、「文化大革命」当時の演奏家や音楽家たちが動き出しました。 模索の結果、「歌詞」を使わず曲の内容を忠実に理解した上で、音楽の部分のみ楽器演奏することが許可されました。

 

ピアニストの「殷承宗」をリーダーとして、指揮者、演奏家や作曲家により「黄河」の編曲チームが結成されました。  編曲としてはとても珍しいケースですが、ピアノのテクニックとオーケストラを熟知するメンバーによる編曲チームだからこそ、「黄河ピアノ協奏曲」を完成させた最大の要因でした。

 

「黄河ピアノ協奏曲」編曲チームの試み 

1969年2月、最初の編曲チームが設立。 第一稿はソナタ形式で書き始めました。 同年の初夏に第一稿が書き上げ、黄河大合唱の指揮者、中央音楽交響楽団の各楽器や声部の担当や著名な作曲家を集め、試演会を開催しました。 ソナタ形式の作曲法は、西洋音楽の型にはまっており、単なるコピーとしか思えないと大変不評だったそうです。 これを改善するために、「黄河」の舞台となる光景を自分達の目で確かめ、しっかり作品と向き合わないといけないとメンバーたちは考えました。

 

1969年8月、編曲チームとスタッフ合わせて9人、原作「冼星海」と「光未然」が実際に経験した黄河に向かいました。 12月までの4ヶ月間、現地で生活体験を重ね、曲の構成を繰り返しディスカッションし、昼夜問わず全員が納得行くまで話し合いました。 最後に、ピアノ協奏曲で四楽章の編成で編曲することに合意しました。

 

より正統なピアノ協奏曲に近づくために、チャイコフスキー、ラヴェル、ラフマニノフ、リストの作品を細かく分析し、効果的な作曲法を「黄河」に取り組みました。 後に、西洋音楽を真似しすぎるとの批判もありましたが、リーダーの「殷承宗」は「西洋音楽が中国に入ってきて100年も経過していないので、西洋音楽の作曲手法で編曲する以上仕方のないことでした」と語っています。 編曲チームの意見がやっと一致し、作業を進めていきました。「黄河ピアノ協奏曲」は、まさに中国音楽と西洋音楽を融合する革新的な一歩がスタートとなりました。 


 

「黄河ピアノ協奏曲」初演、世界の舞台へ 

翌年1970年の2月4日(春節の1月1日)一年にも及ぶ編曲を終え、初演を迎えました。演奏を聴いた周恩来首相は思わず「冼星海が蘇った!」と感激したそうです。同年4月、広州で開かれた国際貿易イベントで集まった外国人観客の前で披露し、中国オリジナルピアノ協奏曲が初めて国際ステージへ登場する瞬間でした。  

 

世界のクラシック音楽業界において議論の多い一曲ですが、「黄河ピアノ協奏曲」は激動する20世紀、1930年代〜80年代において、中国の時代、歴史、文化を反映する一曲となりました。 また、原曲やピアノ協奏曲に編曲する過程で、初演から国際的ステージに至るまで、中国における西洋音楽の受容、中国現代音楽の発展を語るような一曲ではないでしょうか。 そのあとYoutubeの映像をはめます。

 

「黄河ピアノ協奏曲」の演奏 

2016年7月17日、XURUの団体Youth Classicが上海音楽庁の演奏会で実際に演奏した映像です。黄河ピアノ協奏曲は、典型的な四楽章構成で編曲され、全体の演奏時間は23分程、原曲の合唱の特徴を最大限に生かしています。


参考文献:

・月刊『九十年代』1990年第一期

・『华声报』1993年8月

・从《黄河大合唱》到《黄河》钢琴协奏曲

・音乐鉴赏—黄河大合唱

・《黄河大合唱》创作背景 新民网