西洋軍歌が中国音楽に与える影響

ハート楽隊
ハート楽隊

 音楽は人の心をいやすだけではなく、さまざまな目的の為に使われてきた。 宗教の尊厳を高めるために「宗教音楽」が発展し、国家を認識させるために国家が歌われ戦いを鼓舞するために「軍歌」が使われていた。19世紀半ばから20世紀初頭、西洋音楽文化として日本と中国に流入してきた「軍歌」に焦点を当てよう。

 

 19世紀半ば、日本は開国により、西洋音楽の知識や楽器が再び持ち込まれたが、最初に広がったのは軍歌であった。日本に来航した艦隊が軍楽隊を随行させていたことで知られ、軍楽長が積極的に軍楽を日本人に伝習した結果、明治陸海軍が生まれた。

 

 ほぼ同じ頃、中国はアヘン戦争(1840〜1842年)後の南京条約を定め、香港島の割譲、(広州、福州、廈門、寧波、上海)五港の開港などの不平等条約を結び、半殖民地化になってしまった。上海の租界地で駐屯した外国軍隊の西洋人は、欧米と同じよう生活環境を求めた、自らの文化を中国に持ち込んだ。

 

巩金瓯-の楽譜
巩金瓯-の楽譜

 1878年上海の英米租界で上海公共吹奏楽団を成立し、後に軍楽隊に発展する。当時、中国人が楽隊に参加する事が認められず、上海で働いていたフィリピン人が主なメンバーとなった。1886年、清朝政府税関の司令官であるRobert Hartが、20人あまりの中国人メンバーを募って、税関に所属するハート楽隊を立ち上げた。ハート楽隊は二十年の活動を続け、ハート氏の退職により、解散した。しかし、ハート楽隊のメンバーは各都市の軍楽隊の教師として勤め、軍歌を全国に広げた。

 

 各地の軍隊は中国伝統的な鼓吹楽の代わりに、式典や儀式では西洋式軍歌が演奏されるようになった。更に、「楽工学堂」という軍楽隊の専門学校が開かれ、演奏者の育成に力を入れた。当時の袁世凱大統領は、中国独自の軍歌が無いことに不満を抱き、中国人作曲家にオリジナル軍歌を作曲するよう指令した。その上、これらの作品は「正人心、振士気、保国粋」という宗旨に従えなければならない。要するに、軍歌を聞けば、気持ちが鼓舞され、国を守る勇気がわく。

 

 その後、軍歌の中から巩金瓯」が中国初の国歌に選ばれ、軍楽隊に演奏されるようになった。西洋の軍歌は、個人的に大した音楽文化として見ていなかったが、国歌まで影響を与える存在であった。