古代における中国と国外の音楽文化交流

クラヴィコード
クラヴィコード
 中国は五千年の文化を持ち、音楽においても長い歴史を築き上げてきて、外国との音楽文化交流も影響し合いながら発展してきた。

 7世紀初頭、中国は隋によって南北朝が統一され、唐の統治で、世界の経済中心として当時最高の文明国となった。唐は南北の文化を融合しつつ、積極的に各国の文化を吸収しようという方針で、様々な分野で進歩していた。618〜755年まで、社会が安定し、音楽芸術の分野も絶頂期を迎えた。当時中国の高い文化を輸入しようと各国から唐に使節を派遣した。

 

 日本からも唐へ遣唐使を派遣し、今の日本伝統音楽である雅楽も唐楽の影響を受けた。日本の雅楽は、中国の音楽文化だけではなく、アジア諸国の音楽・舞踊文化を融合した芸術である。現在では、雅楽と唐楽が日本でしか演奏されてなく、逆に中国から学びに来る人がいるという状況になった。(時代の流れって言ったら...)


中国には元代(1206-1368年)にヨーロッパの鍵盤楽器が伝来した。明清時代(1368—1644)には中国はアジアばかりでなくヨーロッパの諸国とも音楽文化の交流が頻繁となった。明朝政府はヨーロッパに楽工を派遣して、40鍵のクラヴィアの演奏を学ばせた記録もある。さらに十六世紀頃、ヨーロッパで用いられていた五線譜も伝来したが、歴史的な制約のために普及するにいたらなかった

 

 

キリスト教と西洋音楽の導入

 

 キリスト教が元代に一時広まり、キリスト信徒の間で中国語訳された讃美歌を歌われていた。1610年(明代)、布教の目的で再び北京に入り、中国語訳された讃美歌が最初は宮廷で演奏されるだけだった。(あの頃の中国語はどんな訳だったんだろう?)雍正帝の時代から、アヘン戦争の敗北まで、キリスト教の弾圧されたため、西洋音楽の普及ができなかった。

 

 1844年アヘン戦争後、中国の敗北により、イギリスに対して香港島の割譲と五港の開港を定め、フランスとも同じような条約を結ぶんだ。経済の中心である上海に、欧米各国の資本家、革命家、商人、様々な人間が集まってきた。各国の入港は、中国における西洋音楽史のきっかけになったとも言える。

 

 19世紀末、上海で教会や教会学校の数は増え、中国人生徒が集まるようになった。当時上層階級の資本家の家庭など、英語教育や西洋の学問に対する関心が高まる一方である。宗教を別として、西洋人の音楽活動に参加した中国人と当時上海の租界にいた西洋人は、中国初の西洋楽器による楽隊ハート楽隊を結成した。本格的に西洋音楽の普及を進めた。

 

 

参考文献: 

中華人民共和国文化部外聯局《中国音楽概述》

《中国内地流行音楽発展概論》、《中国音楽通史概述》

榎本泰子《楽人の都・上海》研文出版