中国音楽の歴史

上海劇の歴史

 この頃、横浜の民間演劇団体「横浜夢座」の活動に携わっていただき、地域の劇に興味を持ちました。今回は、自分の故郷である上海の劇(通称上海オペラ)を紹介したいと思います。


 上海劇は、清の時代1736-1795年頃の、太鼓で伴奏する歌舞から生まれたものである。1821-1850年上海の「滩簧」が形成され、後に上海劇と呼ばれるようになった。昔は男性の役者二人のみ出演し、一人が女形を演じていた。


 20世紀30〜40年代、現代劇と映画の影響を受け、人物の個性を大胆に表現し、時事や映画内容を取り入れる事により大成功を収めた。当時、劇に登場する人物は、チャイナー服と西洋服装両方着ていたため、「洋装チャイナドレス劇」とも呼ばれたらしい。


 中国建国後、パリで映画「蝶々夫人」上海劇版を披露するなど、上海劇は国際文化交流の一環としても大きな役割を果たした。その他、映画「哀愁」、「風と共に去りぬ」、「ロミオ&ジュリエット」を上海劇に改編し、当時主要なエンターテイメントとなった。劇に使われた音楽も、西洋音楽の楽器や要素を取り入れ、序曲・幕間劇・全体を貫くテーマソングが形成された。

 

 しかし、70年代、文化大革命と共に、上海劇の発展が途絶えてしまった。文化大革命後、上海劇がある程度復活したが、改革開放政策により大量な文化が一気中国に流れ込み、地域劇に対する興味がしだいに薄らいできた。

 

 現在、数十個の団体がわずか三つしか残さず、演出市場の縮小、観客の減少、運営スタッフの低収入、文化認知度の断層など、様々深刻な問題に直面している。2006年、上海劇は国家無形文化遺産に登録され、文化の保護と復興に力を入れ始めたが、まだまだ消失していく可能性がある。

 

 上海だけではなく、地域のアイデンティティを代表するような劇は、今後どう発展・継承していくのか、大事な課題だと感じている。民族性、地域の個性があるから、国際化やグローバル化の意味があるのではないのでしょうか。

 

 

 

「文化大革命」時期の音楽

語録歌曲集
語録歌曲集

 中国独特な伝統音楽を重視しながら、西洋音楽の影響を受け発展してきた。1949年中国は共産党によって建国され、海外との文化交流がもっと活発になるところだったが、中国近代史において、主要な文化の破壊と経済活動の停滞をもたらした「文化大革命」が爆発した。


 文化大革命の十年間は主に三つの段階に分けられる。

 

 文化大革命の第一段階、1966〜1972年では「語録歌」が歌われていた。「語録歌」とは、「毛沢東語録」を歌詞にした曲の事である。語録はスローガンとして書かれ、芸術的に取られる所はほとんどないが、政治的な目的を果たすために、無理矢理に歌詞として使われていた。そして、「語録歌」から、紅衛兵の戦歌が大量に生まれ、毛沢東を偶像として崇拝する運動が続いた。

 

 従い、外国と音楽交流をしている機関や人物は、もちろん文化大革命で叩かれる対象となった。中国各省の音楽家協会が強制的に活動中止させられ、音楽院の主要幹部、有名な作曲家、作詞家などひどく批判をされ、多くの知識人は命を落とした。毛沢東語録と紅衛兵の歌曲以外の作品は、ほとんど消されてしまい、多く音楽文化が破壊された。(*紅衛兵:中学生から大学生を中心とした運動組織)

 

 第二段階の1972〜1975年、「老三届」と呼ばれた青年を歌う叙情的歌曲が人気を得ていた。「老三届」は中学・高校を卒業する予定であったが、文化革命のため卒業が延期された若者を指す。歌曲に漂う故郷を離れざるを得ない悲しさと将来の見通しがつかない感情が、のちに中国北方音楽創作にも大きな影響を与えた。

 

 ここで、ちょっと個人的な話。「山丹丹花开红艳艳」という中国の民謡によるピアノ編曲を先生の前で弾いてみた。この曲は、まさに文化大革命の時期この時期に作曲された作品である。中国北方の民族的特徴があり、リズム感強く、色の濃い民族歌曲だが、なぜか穏やかで哀しみに感じる所がある。歴史を振り返ってみると、「老三届」のような背景があったからこそ、このような作品が生まれたと実感した。

 

 最後の段階1975〜1976年、十年近く音楽文化を破壊し続け、文化大革命の中期までは、まだ佳作が生まれていたが、政治の功利が日増しに大きくなるに連れ、遂に歌曲創作が絶体絶命に瀕した。文化大革命が終わり、余韻にように「傷痕文学」のような作品が何年間主流となったが、次第に改革開放政策による新しい音楽創作が始まった。

 

 改革開放政策が実施してから、香港・台湾の音楽が中国に流れ込み、音楽活動が再び起動した。1949年中国建国の際に、音楽活動が制限される事を恐れ、多くの音楽家が香港や海外に移住し、音楽中心地を上海から香港に変わった事を思えば、時代の流れや国の政策と音楽の発展いかに密着しているのをしみじみ感じる。


西洋軍歌が中国音楽に与える影響

ハート楽隊
ハート楽隊

 音楽は人の心をいやすだけではなく、さまざまな目的の為に使われてきた。 宗教の尊厳を高めるために「宗教音楽」が発展し、国家を認識させるために国家が歌われ戦いを鼓舞するために「軍歌」が使われていた。19世紀半ばから20世紀初頭、西洋音楽文化として日本と中国に流入してきた「軍歌」に焦点を当てよう。

 

 19世紀半ば、日本は開国により、西洋音楽の知識や楽器が再び持ち込まれたが、最初に広がったのは軍歌であった。日本に来航した艦隊が軍楽隊を随行させていたことで知られ、軍楽長が積極的に軍楽を日本人に伝習した結果、明治陸海軍が生まれた。

 

 ほぼ同じ頃、中国はアヘン戦争(1840〜1842年)後の南京条約を定め、香港島の割譲、(広州、福州、廈門、寧波、上海)五港の開港などの不平等条約を結び、半殖民地化になってしまった。上海の租界地で駐屯した外国軍隊の西洋人は、欧米と同じよう生活環境を求めた、自らの文化を中国に持ち込んだ。

「巩金瓯」の楽譜
「巩金瓯」の楽譜

 1878年上海の英米租界で上海公共吹奏楽団を成立し、後に軍楽隊に発展する。当時、中国人が楽隊に参加する事が認められず、上海で働いていたフィリピン人が主なメンバーとなった。1886年、清朝政府税関の司令官であるRobert Hartが、20人あまりの中国人メンバーを募って、税関に所属するハート楽隊を立ち上げた。ハート楽隊は二十年の活動を続け、ハート氏の退職により、解散した。しかし、ハート楽隊のメンバーは各都市の軍楽隊の教師として勤め、軍歌を全国に広げた。

 

 各地の軍隊は中国伝統的な鼓吹楽の代わりに、式典や儀式では西洋式軍歌が演奏されるようになった。更に、「楽工学堂」という軍楽隊の専門学校が開かれ、演奏者の育成に力を入れた。当時の袁世凱大統領は、中国独自の軍歌が無いことに不満を抱き、中国人作曲家にオリジナル軍歌を作曲するよう指令した。その上、これらの作品は「正人心、振士気、保国粋」という宗旨に従えなければならない。要するに、軍歌を聞けば、気持ちが鼓舞され、国を守る勇気がわく。

 

 その後、軍歌の中から巩金瓯」が中国初の国歌に選ばれ、軍楽隊に演奏されるようになった。西洋の軍歌は、個人的に大した音楽文化として見ていなかったが、国歌まで影響を与える存在であった。


 

音楽美学の歴史と発展(二)

   白居易の遺跡
   白居易の遺跡

 

 

 春秋戦国時代以後、儒家が中国の中心的な思想であり続けていた。儒家学派の「楽論」で主張した「音楽は人々の思想や社会環境に対して目に見えない感化作用を及ぼしている。」に対し、詩人白居易を代表として賛成の意見と、思想家嵇康(ジーコー)の「音には哀楽が無い」という反対の意見に分かれた。


まず、賛成派の意見を見てみよう。

 

 

 


 白居易は唐代著名な詩人であり、音楽評論家でもある。白氏が考える音楽として、音楽は現実と政治を反映し、政治の善し悪しは民衆の感情を左右する。従って、民衆の睦まじく楽しみと哀しみ感情が生まれ、民間音楽の基調となる。

 

 また、楽器は音を出す道具に過ぎず、楽曲はただ音楽の思考を具体的に表現する方法であると述べた。音楽の善し悪しは、楽器やどの時代の音楽と直接関係していない。音楽を改善することは、楽器を改善するのではなく、根本的に政治を改善すべきだと唱えた。この点においては、儒家の音楽教育作用を継承している。

 

 しかし、白居易の音楽美学が当時の封建制度を擁護していたため、全ての問題を統治階級の視点からとらえる傾向があった。また、極端の復古派思想を反対する一方、極力古楽を崇拝している矛盾な所もあった。

 

「声無哀楽論」思想を唱えた嵇康
「声無哀楽論」思想を唱えた嵇康

 儒家思想に反対する意見として、嵇氏は「元々の音・音楽は客観的なモノであり、哀しい感情は人々主観的な感銘である」と主張した。

 

 嵇康が書いた「声無哀楽論」では、儒家を例える「秦客」と自分を例える「東野主人」、二つのキャラクターがあり、Q&Aの形で儒家の思想を反論していく。

 

 儒家の音楽教育作用に対し、人々の感性が違うため、音楽に対する理解も異なる。それゆえに音楽で呼び起こす感情も違う。良い音楽は好まれるが、「風俗習慣を改める」という教育作用はないと述べた。

 

 また、儒家学派で考えた「乱世の音」や「亡国の音」という考えに対し、音楽を無理矢理に政治と結び付き、音楽の芸術性を無視することを批判した。しかし、民間音楽をコントロールすべきだという視点においては、儒家の思想に影響されていたことは否定できない。


 白居易と嵇康の「声無哀楽論」は、漢(紀元前206〜紀元220)から唐(紀元618〜907)年まで、主な音楽美学とも言えよう。これらの思想は、近代の中国音楽に大きな影響を与えていた。日本は遣唐使を破棄するまで、中国の音楽美学思想に対し、どのような意見を持っていたのでしょう。


 

音楽美学の歴史と発展(一)

音楽美学を明確に語っていた史伯の像
音楽美学を明確に語っていた史伯の像

 中国は五千年あまりの歴史を有しており、「詩経」、「論語」、「呂氏春秋」など歴史的文献には、音楽に関する文献が多々残っている。それらの文献では、中国の音楽美学がどのように発展してきたのか書かれている。

 

 音楽を美意識でとらえ始めたのは、西周(紀元前11世紀)頃である。当時、西周の統治者周公が、音楽は政権を安定させる力があると考え、「礼楽」を教科書として使用し、音楽教育を充実させていた。

 

 西周時代における音楽美学思想は「和」と「同」を強調していた。周の大臣史伯が「和実生物、同則不継」一言で当時の思想を表した。

 

 その意味は、音楽の魅力は、音の高さ、音色やリズムと言った音楽要素が常に発展・変化しているところにある。もし似たような方法で音楽を表現し続けたら、価値のある音楽は生み出せなくなる。すなわち「声一無聴」、同一な音は誰も聞いてくれないということだ。


 この観点は、中国音楽美学史の中で、大きな影響を及ぼしている。紀元前251年以後、斉国の大臣はこの思想を更に発展させ、音楽と社会の調和を主張した。

 

 現在において、このような考えは変わっていないと思う。例えば、トランペットの弱音器をつけて吹いたり、ピアノの弦を指で押さえて弾いたり、人々は常に新しい演奏方法や音色を探し続けている。

   孔子♫
   孔子♫

 

 春秋戦国時代では、五百年の乱世が続き、文化が失われ、学術も低下していた。学者たちが激しい論戦を繰り返し、思想や観点を主張する諸子百家が形成した。諸子百家の中で、儒家を初めとする「音楽重視説」と墨家「非音楽説」、二つの観点に分かれた。

まず、孔子を始祖とする儒家の音楽美学思想を見てみよう。

 

 孔子を初めとする、儒家思想の核心は「仁」である。「仁」は、人と人の間で築く理想的な社会関係と倫理道徳を指している。儒家思想では、音楽はなくてはならない存在だと主張した。孔子が西周の礼楽制度を推賞し、音楽が政治面や教育面から人に与える影響の大きさに認識した。自分が設立した学堂では、ニ番目大切な科目として弟子に教えていたという。

 

 一方、それに反対する学派墨家では、乱世の中では音楽を禁止すべきだと主張した。墨家の「非音楽説」の出発点は、音楽を楽しむ貴族を批判し、貧富の差を無くすことであったが、次第に極端的に音楽を否定することになり、他の学派から批判を受けた。

 

 その後、儒家は中国の中心的思想であり続け、中国の周辺国家にも大きな影響を与えた。日本も儒家の思想を取り入れたと思われるので、今後儒家の音楽美学思想はどのように日本に影響を与えたのかを調べる予定。


 

記譜法の歴史

   「碣石调・幽蘭」の楽譜
   「碣石调・幽蘭」の楽譜

 中国最初の記譜法は西周(紀元前1066-771年)の『詩経』にさかのぼる。『詩経』の305編以外、「笙詩」という音楽を記入する文献があったが、保存されなかったため、当時の記譜法が検証できない。その他、「声曲折」という記録の方法もありますが、考証に必要な出土品などまだ発見されてない。

 

 中国で発掘された最も古い楽譜は、南北朝時期(420-589年)に書かれた古琴の曲「碣石调・幽蘭」である。その記譜法が「文字譜」と呼ばれ、古琴に使う記譜法である。言葉通り、文字譜は古琴の運指法や弦の位置を文章で記述する。孔子がこの曲を作曲し、伝授したという。

 現在、「碣石调・幽蘭」の楽譜は東京国立博物館に保存されている。恐らく、遣唐使によって日本に持ってきたと思われる。この記譜法はとても複雑で、リズム、強弱と旋律の高さが記述されていないが、古琴の伝授に大きな影響を及ぼした。

 

 文字譜が改善され、唐の時代に「減字譜」に発展した。「減字譜」は「文字譜」で使われた漢字の部首を使い、部首の組み合わせで楽譜を記述する。例えば、人差し指を「人」、内側に弾くの「抹」を「木」で表現するなど。楽譜の読み上げる時は、ほぼ文字譜と変わらないが、記号で表すことで読みやすくなった。

 

 明・清朝に入ったら、「減字譜」の記譜法が定着してきて、音の高さや変化がより正確に記述するようになった。しかし、演奏するにあたり、様々な楽譜を参考に読み取る必要があり、指で慣れるまで習得するまで相当時間がかかる。現在古琴の演奏も、減字譜を使用している。

 

 

「幽欄」の楽譜を部分拡大
「幽欄」の楽譜を部分拡大

 

 

 

 

 

 

 

 

減字譜の例:右手で三本目の弦で弾く、左手の中指で十徽を押す。

 

 

 

 


(三)留学ブームと西洋音楽応用の始まり

 1894年に始まった日清戦争で、中国が敗北し大きな衝撃を受けた。科挙の改革や新たな制定を求め、外国に出て文化を吸収しようとする思潮が起こり、留学ブームが始まった。留学生の中には、芸術を学んだ者もいた。中国で最初の音楽教育に着手することになったのは、日本で音楽を勉強した人々だと言われている。

 

 中国の領土をそれ以上帝国主義に分割されないように、中国民衆が積極的に資産階級的民主主義文化を教育に取り入れ、国力を強化しようとした。その思想に沿って、1905年科挙が廃止され、西洋の科学文化を中心に学堂における教育がますます盛んできた。

 

 日本に留学していた、上海の商人の家庭に生まれたシン・シンコウ(沈心工)は、留学生仲間に呼びかけて音楽講習会を組織して、日本で学んだ西洋音楽を中国の歌に取り組んだ。沈心工が作った学堂楽歌は中国人が西洋音階を用いて作った初めての歌であった。その後、愛国・反帝国主義を主題とした学校唱歌が大量に作曲された。

 

 1906年、沈をはじめ、中国人留学生によって「風潮」という音楽雑誌が出版された。雑誌の内容は、日本語から中国語に訳された西洋音楽の知識であった。西洋音楽の専門知識が手に入るようになった事で、西洋音階に慣れるための学堂楽歌から、本場欧州の西洋音楽の真髄に追求することに変わって行く。

 

【中国の十二平均律】      

 余談ですが、バッハの平均律を聞いている時に、中国も十二平均律を作ったらしい。しかも、欧米より早く発見されたと記録されている。当時は、だれも興味を持ってくれなかったので、埋没されしまった。その楽譜と作曲家の写真を発見したので、紹介いたします^.^

 

発見者
発見者
その文献
その文献

(二)キリスト教と西洋音楽の導入

 キリスト教が元代に一時広まり、キリスト信徒の間で中国語訳された讃美歌を歌われていた。1610年(明代)、布教の目的で再び北京に入り、中国語訳された讃美歌が最初は宮廷で演奏されるだけだった。(あの頃の中国語はどんな訳だったんだろう?)雍正帝の時代から、アヘン戦争の敗北まで、キリスト教の弾圧されたため、西洋音楽の普及ができなかった。

 

 1844年アヘン戦争後、中国の敗北により、イギリスに対して香港島の割譲と五港の開港を定め、フランスとも同じような条約を結ぶんだ。経済の中心である上海に、欧米各国の資本家、革命家、商人、様々な人間が集まってきた。各国の入港は、中国における西洋音楽史のきっかけになったとも言える。

 

 19世紀末、上海で教会や教会学校の数は増え、中国人生徒が集まるようになった。当時上層階級の資本家の家庭など、英語教育や西洋の学問に対する関心が高まる一方である。宗教を別として、西洋人の音楽活動に参加した中国人と当時上海の租界にいた西洋人は、中国初の西洋楽器による楽隊ハート楽隊を結成した。本格的に西洋音楽の普及を進めた。

 

 

(一)古代における中国と外国との音楽文化の交流

クラヴィコード
クラヴィコード
 中国は五千年の文化を持ち、音楽においても長い歴史を築き上げてきて、外国との音楽文化交流も影響し合いながら発展してきた。

 7世紀初頭、中国は隋によって南北朝が統一され、唐の統治で、世界の経済中心として当時最高の文明国となった。唐は南北の文化を融合しつつ、積極的に各国の文化を吸収しようという方針で、様々な分野で進歩していた。618〜755年まで、社会が安定し、音楽芸術の分野も絶頂期を迎えた。当時中国の高い文化を輸入しようと各国から唐に使節を派遣した。

 

 日本からも唐へ遣唐使を派遣し、今の日本伝統音楽である雅楽も唐楽の影響を受けた。日本の雅楽は、中国の音楽文化だけではなく、アジア諸国の音楽・舞踊文化を融合した芸術である。現在では、雅楽と唐楽が日本でしか演奏されてなく、逆に中国から学びに来る人がいるという状況になった。(時代の流れって言ったら...)


中国には元代(1206-1368年)にヨーロッパの鍵盤楽器が伝来した。明清時代(1368—1644)には中国はアジアばかりでなくヨーロッパの諸国とも音楽文化の交流が頻繁となった。明朝政府はヨーロッパに楽工を派遣して、40鍵のクラヴィアの演奏を学ばせた記録もある。さらに十六世紀頃、ヨーロッパで用いられていた五線譜も伝来したが、歴史的な制約のために普及するにいたらなかった

 

 

 

参考文献: 

中華人民共和国文化部外聯局《中国音楽概述》

《中国内地流行音楽発展概論》、《中国音楽通史概述》

榎本泰子《楽人の都・上海》研文出版