藤沢市鵠沼海岸 聶耳記念広場

 藤沢市鵠沼海岸にある湘南海岸公園の一角に、中国の国歌『義勇軍進行曲』を作曲した「聶耳」(ニアアル)を記念する広場があります。聶耳は1912年に生まれ、1935717日、この鵠沼海岸で短い人生の幕を閉じました。

 

 聶耳が生きていたのは、中国国内で国共内戦や満州事変等、戦争の絶えない時代でした。『義勇軍進行曲』は抗日映画の主題歌として歌われ、歌詞の中の「敵」とは日本を指すと言われています。その中で、なぜ聶耳が日本に来日し、どんな風景を見て、何を感じていたのか。

 20世紀初頭、当時の清朝政府は大幅な教育改革を実行し、今までの科挙制度を廃止し、近代学校を作り、義務教育制度を始めました。その教育改革のモデルとなったのは、日本です。優秀な学生を官費生(国費留学生)として日本へ留学させ、さらに自費生も多くいました。当時、日本は欧米の国より比較的に行きやすい国だったと考えられます。周恩来、蒋介石、陳独秀、魯迅、郭沫若など、日本留学生から、数多くの政治家や文学者が輩出されています。

 

 その中で、聶耳は対立する党に逮捕される恐れがあったため、日本へ亡命しました。兄が滞在する藤沢市の鵠沼を訪れ、海岸で遭難するまで約三ヶ月間ここで生活を送りました。実際に聶耳が遭難したと見られる場所に立ってみると、青空が広がり、銀色に輝く波の音が響き渡って、平和な気持ちになれます。このような開放的な空間と豊かな自然は、きっと聶耳にエネルギーと勇気を与えたでしょう。

 

 聶耳記念広場にある石碑には、日中友好を願う両国から想いが寄せられています。
 聶耳記念広場にある石碑には、日中友好を願う両国から想いが寄せられています。

 

 聶耳は、戦争の中で複雑な心境を抱えたままこの海岸で終焉を迎える事になってしまいましたが、彼が日本に来たことによって、後に日本と中国友好関係を築くきっかけとなりました。現在では、聶耳が足跡を残した鵠沼海岸に記念広場が作られた他、聶耳が生まれた都市、中国の昆明と藤沢市は姉妹都市を結び、交流が続いています。

 

 

聶耳記念碑の由来: 

聶耳記念広場は1949年に藤沢市民有志により聶耳を記念する運動が起こり、1954年に記念碑がたてられました。(by 藤沢市ホームページ

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